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一、創建から運営へ | ||||||||||||||
1975年4月5日深夜11時50分蒋介石総統は心臓病の発作でお亡くになりました。同年6月、台湾政府行政院は葬儀委員会の決議を受けて、台北市内に記念館の建設を決定しました。同年7月1日に「中正紀念堂建設準備プロジェクトチーム」が立ち上がり、1976年10月12日に「中正紀念堂建設準備指導委員会」が成立し、現在地が建設予定地に指定されました。設計プランは公開募集されることになり、内外の専門家による審査を経て、政府が最終案を決定しました。中正紀念堂第1期工事は1980年3月に竣工し、4月4日に落成開幕、4月5日に一般開放されました。 | ||||||||||||||
(一)敷地と建物の配置 | ||||||||||||||
建設準備プロジェクトチームは1975年7月2日に第1回会議を開き、建設予定地を、杭州南路・中山南路・愛国東路・信義路に囲まれた軍用跡地に決定しました。当該敷地は総面積約25万平方メートルで、清代には練兵場、日本時代には山砲隊と台湾歩兵第一聯隊の駐屯地、大戦後は陸軍総本部が「営辺段」として使用してきました。1970年代になって、近代的な商業センターを建設する計画が持ち上がっていましたが、蒋介石総統逝去という事態を受け、元首を記念するメモリアルパークとして再生することになり、園内に中正紀念堂・音楽ホール・ナショナルシアターという三つの建造物の設置が決まりました。中国文化の精神を継承しつつ斬新なデザインコンセプトを擁し、趣旨にふさわしい荘厳な風格を具えたプランが公募に付されたのです。 | ||||||||||||||
(二)建築設計および総統塑像 | ||||||||||||||
1975年8月、建設準備プロジェクトチームからの呼びかけに答えて43件の応募があり、沈祖海・藍銘光・楊卓成・陳勇男・莫晨峯の5名の建築士のプランが第一次審査をパスしました。プロジェクトチームは虞兆中・陳其寬・張祖璿・朱尊誼・蒋復璁・Pietro Belluschi・Eduardo Catalanoといった専門家に選定を依頼し、1976年7月7日の第8回会議で楊卓成氏の案が最終的に選ばれました。第1期建設は中正紀念堂・東屋・ゲート・回廊、第2期に音楽ホールとナショナルシアターの建設が計画されました。 蒋介石総統の塑像は、1976年4月30日に陳一帆氏が1.8メートルの高さの坐像を粘土で制作、1977年11月に建設準備プロジェクトチームと陳氏が契約を締結しました。中国国民党中央委員会の木柵事務所前の空地に高さ18メートルのスタジオが設置され、陳氏とその助手が模型をもとに同年樹脂製の巨大な像を作り上げました。そして1979年に金鉱公司から供給された25トンの青銅を使って銅像が鋳造されました。 |
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(三)財務計画と調度 | ||||||||||||||
建設準備プロジェクトチームは台湾銀行と郵便局を通じて各界から献金を募ったほか、現物による支援を呼びかけました。例えば、新竹玻璃公司はすべての平板と押し花ガラス、遠東換気公司はセントラル換気設備、功学社は大型ピアノ、嘉新水泥公司はセメント二万包、日本の華僑や国内の団体・個人からは花卉や樹木がそれぞれれ寄せられました。 経費としては、1980年9月末までに各界から二億元余の献金が寄せられ、国庫からの七億元余、そして利息収入を総計すると十一億元余となりました。しかし、全部の工程および総統塑像費用の支出は計十二億元余が想定されており、不足分は予算が計上されたため、後続の献金は国庫に納められました。 |
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(四)工程建設 | ||||||||||||||
敷地には建造物が残っていたので、1976年4月より栄民工程事業管理処が四期に分けて撤去・清掃をおこないました。1976年10月31日の蒋介石総統の生誕日にあわせ厳家淦総統が主宰して起工式が執り行われました。1977年4月より基礎工事、12月1日より正式な施工が栄工処の手で始まりました。準備から設計・施工に至るまですべて台湾人自身の手で進められ、多くの栄民(退役軍人)が昼夜兼行の難工事に挑みました。おかげで28か月をかけ全部の工程が1980年3月20日に無事竣工しました。紀念堂の構造の特殊性、厳格な品質上の要求から、当時の建築技術からみて空前の先進性を具えていました: |
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(五)紀念堂落成開幕 | ||||||||||||||
中正紀念堂落成式は蒋経国総統が主宰して1980年4月4日瞻仰大道(現民主大道)で挙行されました。当日は紀念堂建設に貢献した内外32名の代表が招かれ、総統府の蔡培火国策顧問が中正紀念堂の模型を蒋経国総統に献上したあと、除幕の儀式が執り行われました。翌日は蒋介石総統逝去五周年にあたり、紀念堂が一般に開放されました。当日の参観者は十万余人に達しました。 | ||||||||||||||
二、組織の変遷 | ||||||||||||||
1980年2月に建設準備プロジェクトチームからそのまま主任職を駱鵬氏が引き継いで、同年3月1日に「中正紀念堂管理処準備班」が成立しました。暫時退輔会に事務室を借り受け、1980年3月22日より業務を開始し、プロジェクトチームの指導のもと、編成・設営の作業に取り掛かったのです。「中正紀念堂管理処準備班」は1980年4月1日から6月30日まで建設準備プロジェクトチームに属しつつ財団法人の形態で運営されており、国父紀念館のスタイルを模して定款や組織を編制し、初期の雛型としました。 1980年5月紀念堂は台北市の管理に戻り、7月1日「中正紀念堂管理処」が正式に成立しました。駱鵬主任が処長代理を務め、「中正紀念堂指導委員会」の指導を受けました。1986年7月に教育部(文部省)の管理下に移り、「国立中正紀念堂管理処」と改称され、社会教育機構の一つに生まれ変わりました。2012年5月20日には文化部(文化省)の管理下に入り組織改革が進められ、綜合規画組・文化資源組・研究収蔵組・展覧企画組・推広教育組・工務機電組という六つの組と人事・会計の二室が設置されました。 |
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三、建築の美 | ||||||||||||||
(一)紀念堂主体 | ||||||||||||||
紀念堂は西向きに立っています。中華文化ならではの美学を体現した本堂の面積は約1万5千平方メートル、三層の方形の基座は「中正」の意義を示し、四面の外壁は白色の大理石で覆われています。堂頂は八角形にそそり立っています。これは「人」の集まりをイメージし、その手は天に向かっています。「天人合一」という思想を示したものといわれています。屋上をおおう藍色のガラス瓦はまばぬい陽光を受けて燦々と輝き、さらに黄色の頂端部が金色の光を放っています。紀念堂と正面ゲート間は瞻仰大道と呼ばれます(2007年に民主大道と改称)。一面敷石をしきつめられた大道は長さ380メートル、紀念堂正面の階段は蒋総統の享年89歳にあわせ89段あります。八角の屋根を擁する紀念堂、寄棟造の国家戯劇院(ナショナルシアター)、入母屋造の国家音楽庁(音楽ホール)と、三つの建築が互いに三局をなして、壮麗な景観を生み出し、遠くには総統府も望むことができます。 紀念堂の高さは70メートル、上下二層に分かれています。上層は正庁にあたり、大門の扇は高さ16メートル・重さ75トンに達する浮彫を施した青銅製です。ホール内には蒋介石総統の坐姿が鎮座します。銅像本体の高さは6.3メートル、台座の高さが3.5メートル、頭上には総統の遺訓が刻まれ、背後の白壁には「倫理・民主・科学」と総統の揮毫が刻まれています。両側の壁上には「生活の目的は人類全体の進歩のために、生命の意義は宇宙の生命を受け継ぐことにある」と総統の生涯を貫く理想が掲げられています。天井は青天白日の国徽を模った細工が施され、その周囲を花模様が縁どっています。間接採光と床一面の花崗石が落ち着いた荘厳な佇まいを醸し出しています。 紀念堂の下層部は宮殿式設計を採用し、四隅の柱や天井には金黄色の彩画が施されています。開堂時は「文物展視室」に蒋介石総統の衣冠・文献・手稿・写真・映像などが展示・放映されていましたが、リニューアル後は、講演ホール(現中正演芸庁)のほか展示ホール・ギャラリー・研修教室が開設され、社会教育・文化活動に提供されています。 |
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(二)ゲート・回廊および東屋 | ||||||||||||||
紀念堂の中山南路側に正面ゲートがしつらえてあります。高さ30メートル、幅72メートル、「五間六柱十一楼」の建築形式で、白色の柱に精緻な浮彫が施され、藍色のガラス瓦が輝きを放っています。ゲート正面にはもともと「大中至正」という四文字が掲げられていました。秦孝儀が指定し書法家の楊家麟が書いたものです。蒋介石総統の平生の志節と精神を示したものでしたが、2007年に「自由広場」と改称されています。こちらは王羲の書法によるものです。 信義路および愛国東路の南北両側にも高さ13.8メートル、幅19.7メートル、「三間四柱三楼」のそれぞれ「大忠門」「大孝門」と呼ばれるゲートがあります。中正紀念公園の東南北三面には古式床しい回路がめぐらされています。高さ5.5メートル、全長1200メートル、4.5メートルごとに26種のデザインをもつ窓が穿たれています。四隅には高さ11.1メートルの東屋が設置され、市民の憩いの場所になっています。 |
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(三)中式庭園 | ||||||||||||||
紀念堂の周囲は中正紀念公園としてしつらえられています。中国歴代庭園を手本とし、雲漢池・光華池など不規則な形状の池を中心に山水画のような造景が施されています。白い小橋がかかった池の中には錦鯉が悠々と泳ぎ、季節の移ろいとともにいろいろな花が咲き誇ります。春には梅や桜が、夏には南洋杉の歩道が人々の気持ちを和ませています。また園内には忠勇・親民・自強と名付けられたジムや健康歩道が設置され、市民がダンスや格闘技の稽古に余念がありません。 | ||||||||||||||
四、元首の永遠に追慕して | ||||||||||||||
紀念堂開放から六年の間に参観者は五千万人を超えました。この間にスワジランド王国総理馬班達親王殿下、マーシャル諸島カブア大統領、シンガポール李光耀首相、モナコ王国レーニエ三世とグレスケリー王妃などの国賓のほか米国のオズモンド兄弟やデビッド・カッパーフィールド魔術師など多くの著名人が訪れました。ゲストたちは蒋介石総統の銅像を仰ぎ見ながら衛兵の交代式を観賞し、展示室や上映室で総統の思想や偉業に触れました。1986年7月には栄工処を通じて図書館・展覧館を増設したほか、蒋介石総統生誕百周年を記念する大会や展覧会、出版活動をおこないました。1988年には蒋経国総統特展・蒋介石総統画紀特展が開催されています。1990年2月には台北ランタンフェスティバルが登場し、70万人の観衆が押し寄せました。ランタンフェスティバルは2000年まで毎年この紀念堂で開催され、台湾を代表する国際的なイベントに成長しました。 1980年代後半には民主化の嵐が吹き荒れ、政治的環境は大きく変貌しました。1986年には野党民進党が成立し、1987年には長期の戒厳令が解除されました。1988年に蒋経国総統が逝去される一方、報道機関の新設が認められ、1989年には結社の自由が保障されました。その後、1990年には急成長した学生運動の舞台になるなど、紀念堂の広場は市民の集会に利用されることも多くなりました。このように当地は台湾社会の変遷を見つめ続けてきたのです。 |
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